踊るエレジー
奥 脇 さん の花
萩原健次郎(詩人)
不変と可変、生命の中には、
変わるものと変わらないものがある。
ごく単純に思考すれば、というよりも科学的に考えれば、
生命という生命はすべて変わりつづけている。動きつづけている。
しかし、それは、生命が時間という概念を通してだけとらえられた結論ともいえる。
時間という概念をもしも無視して、
写真に撮られた即物的な生命の様相をとらえれば、不変であるともいえる。
写真の不思議も、それから写真の虚飾もこの事実のなかにある。
写真は、可変的な世界を不変的な世界にしてしまう、変換システムでもあるし、
時間という概念を無くしてしまう消却システムでもある。
だから、写真の究極としてのテーマは、この変化と消却に帰する。
ごく、自然なことだが、このテーマは私たちの生命自体が、
いつもおぼろげながら見つめている命題と似ている。
もっと平たくいえば、生き生きとして動き弾むものと
生き生きとして憂い哀しむものという二極といえるだろうか。
奥脇孝一さんの写真を見つめて感じる、
どこかへ引っ張られていく感覚の在処もきっとここにあるのだろう。
花たちは、それこそ歓びに満ちて踊るダンサーのようでもあるし、
まったく逆に、憂愁の色濃い思索をしている哲学者のようでもある。
あるいは、もっとふいに偶発的に見つめたときのシルエットは、踊る哲学者であったりもする。
イメージが明滅し翻り、軽い眩暈を見せるとき、すこしだけユーモアが見えかくれする。
いつか奥脇さんがいっていたと記憶しているが
「変わらないものヘの憧れ」という言に、私は半分だけうなづく。
この言は、撮影者の慈悲にコーティングされている。優しすぎる。
むしろここに描かれた花たちの世界は、
「変わりつづけていくことへの欲動」に満ち満ちている。
思索し、踊り、思索し、踊り。それの繰り返し。
すくなくとも私の生命もそうして、枝葉を伸ばしている。
もちろん、その隙間で流れているエロティシズムに満ちたエレジーのことを
一時たりとも聴きのがすことなく、
私たちもまた、この花たちのように優美な視線を
レンズに向けることがたまにはある。
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